1933年   紀州花園村に生まれる
1980年   ミニコミ「めめめ通信」発行費用のため着物専門の古着屋を始める モスリン収集を始める
1993年   60歳を機に故郷花園村に居を移す モスリン資料 3百点余 モスリン帖16冊を文化服装学園に寄贈
1995年   着物の古布を活かし裂き織を始める
2007年   「くらしのきもの館準備室」を仲間5人と共に発足させる
2008年   3月から「くらしのきもの資料館」を正式に発足させる
2011年3月 「くらしのきもの資料館」の資料と業務はすべて武庫川女子大学に委譲

モスリンの時代
モスリンとは元々、上等な木綿の細番手で織られた布を指す言葉で、上等の綿を産出するインドや中近東で生まれた呼び名のようです。それらの木綿がヨーロッパに輸出され、その薄手木綿をまねてウールで織られたのがウールモスリンだったのです。
モスリンを織る細くて長い毛はメリノーの羊からしか採れないで、古くからメリノー羊を独占していたスペインでは、国外にこの羊がでることを極力ふせぎ、もし種羊を一頭でも国外へ密輸出すれば斬首の刑にあったそうです。
が、時代と共にそのメリノもヨーロッパに広がり日本にも入ってくるようになったのです。
化学染料で染められた鮮麗・華麗な色は女の人たちの心を奪い、唐縮緬と呼ばれたモスリンは絹の縮緬よりも高価な贅沢品だったのです。しかし、明治中期からは我が国でもモスリンが織られ、また染められるようになり、上流社会のものだったモスリンが一般の人々の手の届くものになってきました。
当時の庶民の女性たちの衣類は木綿か麻の藍か茶の縞か絣がほとんどでしたから今まで目にしたことも無い友禅模様のモスリンは大きな驚きだったと思います。工場で大量生産されたモスリンは絹とは比較にはならない安さで女の人たちの夢を満たしていきました。
明治38年にはモスリンが輸出されるようになり、大正5年にはモスリン輸入はなくなり、大正9年には生産過剰で各社は四割操短を強いられています。そんな中、業者は売るために、多様な模様の創出に励みます。
日本古来の古典柄、ヨーロッパから入ってきたアール・ヌーボー、アール・デコ、アラベスクに南洋風更紗、洋犬や舶来の道具や自転車、野球や競馬などのスポーツ、飛行機、ケーブルカー、はては戦争まで、ありとあらゆるものがモスリンの模様となって庶民の暮らしを彩りました。
しかし、昭和13年、戦争体制の下、国内用のモスリンの製織は禁止され、女性の着物離れとあいまって急速にモスリンの時代は幕を閉じてしまいました。敗戦後の昭和30年代からは長じゅばん地や主に寒冷地向けの半纏地として復活しましたが、戦前のあの輝きを取り戻すことはありませんでした。しかし、外来のウールを研鑚を重ねて、先人が作りあげて来た和洋服地としてのモスリンの独自の魅力は今、若いアーティストたちを捉え、新しい作品が生まれつつあります。 
大量生産ではないモスリンの時代よ、今日は。  <毛斯綸2008年9月3日発行より >

コレクション (大正時代のモスリン)